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中勘助『妙子への手紙』

〈今に私がお爺さんになって死んでしまって、あなたが今のお母様のような立派な奥様になって、丁度今のあなたみたいな、ひよっこで、おてんばで、可愛らしいお嬢さんにお噺をせびられるようになったとき、私のことなんぞは忘れてしまってもこのお噺だけはわすれないできかせることができるようによく覚えていてちょうだい。〉

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大正6年(1917)5月、中勘助は一高時代の友人·江木定男の幼い娘·妙子への手紙で、そう綴った。
まだ膝にのっていた頃、いつかの帰り道、ふたりで手をつなぎながら話した物語を、若き母になって巴里に暮らす妙子のために書き改め、昭和3年に発表した。
昔の印度、亡き恋人を刻んだ石像にその魂が還ることを祈り、神の怒りに触れ自らの命を失った若者の恋を描く『菩提樹の蔭』。

中勘助は明治18年(1885)5月22日に生まれた。
妙子が生まれたのは明治41年(1908)、中が23歳の時だった。
岩波文庫の『菩提樹の蔭』には『郊外 その二』『妙子への手紙』が収められ、中と妙子の交流がうかがえる。
『妙子への手紙』の冒頭で、〈妙子はかわいそうな子だった。〉と中は書く。
祖母にかわいがられて育てられたために実母との間に距離があり、成人してからは祖母とも間があった。

〈妙子はたぶんお母さんからうけた爆発的な感情と電光的な神経をもちながら境遇上それだけ一層自ら淋しい批判的な人間になっていった。家族間の感情の衝突の一つの原因となり、争いの場におかれた者の不幸である。〉


子供好きなところに、家庭の不和と妙子の持つかわいらしさから、中はまるで小さな恋人のように妙子をかわいがった。
15·6の時、妙子は父と死別する。
江木は妙子の運命を心がかりにし、家族の唯一の事情通で中立者の中を妙子は頼るようになる。結婚後も、本当の父親以上の無私の点を中に見たのか。

〈妙子はおりおり私のまえで悔いて、嘆いて、たまには叱られて、涙にとけて流れてしまうかと思うくらい泣いた。〉
〈昔妙子がこの膝のうえにこの腕の抱擁のうちにあったように妙子はその一生をとおして善きにも悪しきにも常に私の慈悲のなかに生きていたのである。妙子は自らの涙の流れをもって洗い去るべきものを洗い去った。〉


『妙子への手紙』は大正5年(1916)、中が8歳頃の妙子に宛てたひらがなの手紙からはじまる。大正8年頃まで少女へ成長していく妙子へ。間を空けて昭和3年妻に母になり、夫と供に巴里へ行った妙子へ。平塚からジュネーブの妙子へ。手紙の終わりには夫の〈猪谷さんに宜しく〉と書き添えて。子供の時に妙子にした話を改めて「菩提樹の蔭」を書いたこと。昭和5年の頻繁なやりとり。中からの手紙だけが綴られていても、手紙の向こうの妙子の返事がぼんやり浮かんでくる。昭和7年6月、妙子をなだめる父のような手紙。

〈あとは野となれじゃ困るよ、私だってあなたを頼りにも、慰めにも、喜びにもしているんだのに、私の膝はいつでもあなたのためにあけてあるのに。あんまり自分勝手をしちゃ困る。元気を出しなさい。すこし私を見習いなさい。強そうな弱虫!〉


昭和17年(1942)7月、妙子は死去した。

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中のまわりでは、妙子の生まれる前年、父が死去した。妙子が生まれた翌年の明治42年(1909)24歳、中が東京帝国大学国文学科を卒業する直前、九州帝国大学教授の兄·金一が脳出血で倒れる。以来、兄嫁·末子の後見、財務整理、思考能力の減退した兄の看護、中家の重苦を背負う。
大正2年(1913)28歳、夏目漱石の推薦で『銀の匙』が「東京朝日新聞」に連載された年。一高時代からの親友·山田又吉が安倍能成宅で自殺する。
昭和17年4月、兄嫁が59歳で死去。7月、妙子が亡くなる。10月、中の結婚式当日、兄は71歳で死去した。中は57歳になっていた。
中勘助は昭和40年(1960)5月、80歳まで生きた。

妙子の生きた時間は、中が苦しんで生きた時間でもあった。『妙子への手紙』に一切あらわされないその苦しみと、自らの苦しみを綴った妙子からの手紙を燃やした中にとって、妙子の存在がどれほどのものだったかは、他人にはわからない。

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 〈あなたが生れたことは私に大きな幸福だった
  あなたとくらしたことは私に大きな幸福だった
  あなたのこれまでにない静かな最後の顔をみたことは私にせめてもの慰めだった
  妙子や 三十五年は長かったね〉



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by bookrium | 2009-12-11 13:52 | 好きな本 | Trackback | Comments(0)