

〈松浦さんのしたいことは、ジャンルは違うけれど私とかなり近いことで、それはたぶん「夢がなければ生きていても意味がない」という旗を掲げた、世代的なものだということ。そのために生きて死んでいった人たちの志を継ぐものたちだということ。〉
よしもとばななのエッセイ『人生の旅をゆく2』。「最低で最高の関係」という文章で、松浦弥太郎さんについて書かれています。
〈小さい頃や若い頃に、本に救われ、本に寄り添って生きてきたことがある人だということ。〉
長い川沿いを歩いて、中目黒にある松浦さんの古書店カウブックスで本を買って、コーヒーを飲んで、息子と外のベンチで座り、仕事を終えた夫を待つ。
〈さあ、ごはんでも食べに行こうか、と立ちあがるとき、私はこのお店に長いあいだ幸せをもらっていることを感じる。〉
〈この美しい書店が長く続いていることは希望の光みたいなものなのだ。〉
13年位前に、中目黒のカウブックスに行ったことがあります。
松浦さんの『最低で最高の本屋』という本が大好きで、実際行ってみて、そこにカウブックスがある、ということがうれしかったことは、忘れられません。
よしもとさんの本を翻訳しているイタリア人を連れていったら、とても喜んでじっくりと本を見てたくさん選んだこと。
〈彼は幸せそうに「こんなすばらしい書店、イタリアにもあったらどんなにいいだろう」と言った。
この言葉は、松浦さんがしたかったことを叶えているのではないかと思う。〉
このエッセイを読んで、何年たっても、行けばそこにちゃんとある。あるべき本があって、心地よく過ごせる。そんな古本屋が今もある、ということが、なんだかうれしく、あたたかい気持ちになりました。
NHK「視点・論点」で17年語った言葉。亡くなった妻への50年目のラブレター。自らの詩5篇。
1995年8月に始まり、言葉の変化、本というもの、風景の中の人間、世紀の変わり目、繰り返す主題のなかに、2011年の大震災が起こります。
人へ、風景へ、自分へ、時間を見つめ、まなざしを向ける。
あたりまえの時間が、もっとも新鮮でなければならない、ということ。
そして2012年7月「海を見にゆく」という題で、この本は終わります。
はっと惹かれる言葉、考えがたくさんありました。
著者の詩、紹介される詩人、芥川龍之介の『蜜柑』など、著者の紹介する本も読んでみたくなります。
去年やその前からあまり本を読めずにいたのですが、ひさしぶりに、いい本を読んだな、という充足感がありました。
読んでいて、いろんな風景、眺めが浮かびます。
自分のいる風景。風景の中の自分。

〈日々のあり方を変える。そうすることで、へつらいのない言葉を可能にするような「箇中」の生き方、一人の生き方をもとめた。良寛がのぞんだのは、世にむけて発信する言葉ではなく、自ら生きる方法としての言葉でした。
「発信する」ばかりの人は「自ら称して有識と為す」人だ、と良寛は言います。ですから「諸人みな是となす」。けれども「却って本来の事を問えば、一箇も使う能わず」。大事なのはどんな言葉か。言いつのる言葉ではない言葉、受けとめる言葉のあり方です。〉「受信力の回復を」
〈人生を理解するというのは、人生に対する視点を選びとること、自分の立つ位置を選びとるということです。〉「他山の石とする」
〈本を開くということは、心を閉ざすのではなく、心を開くということです。〉「本に書いて親しむという習慣」
〈わたしたちは今日、じぶんが風景のなかでじぶんの感受性は育ってゆくということを、ひどく実感しにくいところで生きているのではないでしょうか。人の価値観を育むもの、支えるもの、確かにするものとしての風景のなかに身を置くということ、風景のひろがりのなかでじぶんの小ささを思い知るということが、いつか見失われてしまっているために、人間がひどく尊大になってしまっている。そのことの危うさを、いつも考えます。〉「風景という価値観」

手元に置いて、その曲集を聴きながら、繰り返し読みたくなる、そんな一冊です。

自分の作ったカップ。人の手に渡ったもの。
36歳までに読んだ方がいいと薦められた、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。
作品の中に出てくる、〈クロ〉こと、陶芸家になっエリは〈「私はできればものを書く仕事に就きたいと思っていた。昔から文章を書くのが好きだったから。小説か詩か、そんなものを書いてみたかった。」〉と36歳の同級生、主人公つくるに語ります。
〈「さようなら小説、こんにちは陶芸。」〉とエリは言いました。
読み終わってから、作中にたびたび出る、ラザール・ベルマンの演奏するリストの『巡礼の年』も、繰り返し聞いています。
〈今の自分に差し出せるだけのものを、それがなんであれ、そっくり差し出そう。深い森に迷い込んで、悪いこびとたちにつかまらないうちに。〉
この文章も忘れ難いです。

ふと足元をすくわれそうになったとき、必ず、ひもとく本があります。
その本には、ある女性の人生が描かれています。
何処にでもある、ごくフツウの人生。
でも、本の中の彼女に出逢うと、心の湖に波紋が幾重にも広がるように、
ゆっくりと、優しい言葉が満ちていきます。
今日は、どんな彼女に逢えるでしょうか。〉

〈私の名前は、月原加奈子。三十八歳。旅行会社に勤めている。〉
そう言って始まる『Sound Library~世界に一つだけの本』というラジオドラマがあります。
それは、JFN系列で2010年春に放送が始まりました。
朗読は女優の木村多江さん。わたしの大好きな女優さんです。
脚本の北阪昌人さんは、このドラマの最初の頃のストーリーをPHPから本で出されています。
このお話は、月原加奈子という一人の女性の自伝の、いろんな出会いや別れを描いた本を開いて、朗読しています。
その時々の季節、神保町の旅行会社に勤める旅の好きな彼女の、思い出される人たち、お客様、同僚、過去の恋人、好きになった人、好意をよせてくれた人、友人、母、弟、警察官だった亡くなった父…。
平易な言葉で、穏やかに、優しい声で読み上げられる、月原加奈子という女性や出逢う人々の人生の瞬間が感じられる、とても大好きなお話です。
先日、300回を迎えたこのドラマを、2010年の6月頃から聞いていました。
その頃は土曜の11時にFMで流れていて、ラジオを普段聞かなかったわたしも、いつからか楽しみになっていました。
30分ほどのラジオでは朗読の合間に、ストーリーに沿った音楽が流れるのですが、番組の時間が変わって聞けなくなってからは、podcastで聞いています。こちらは音楽はなく、朗読のみです。
北阪昌人さんという人は、どうしてこんなに38歳のひとりの女性の人生での、様々なエピソードや気持ちを描けるのだろうと、いつもすごいなあ、と思います。
木村多江さんは、ひとりで、女性も、男性も、年齢や生きてきた人生の違う人々を、ひとりひとり声だけで想像できる、描けるということが、本当にすごいなあと思って聞いています。
神保町のどこかに、月原加奈子さんがいるような、耳を傾ける人の人生に、彼女の過去の思い出も少し寄り添うような、そんな気にさせてくれる物語です。
もう6年も聞いているのかという驚きと、自分の中に少しずつ、染み込んでいくような思いがあります。
このブログは最近書かなくなっていました。
2009年に、一番書いていたと思います。その頃の自分には本が必要だったからだと、思います。
2010年からは、陶芸をしたので、だんだん気持ちが移ってあの時の自分にあったこのブログの必要な気持ちはなくなっていったな、と思いました。
なかなか、本と陶芸に注ぐ中間地点の気持ちや、自分がこれからもどうしたいか分からない時があります。ただ気楽に好きに書けばよいのかもしれないですが。多少読んだりもするけど本から離れつつある自分が、心地よく聞いていた、長い時間をかけている物語が、この『世界にひとつだけの本』でした。
この物語も、いつかは終わりがくるのだろうな、と思う。でも、ひとつの支えになっている物語です。それは活字の、目に見えて触れる本とは違う、物語のたのしさをわたしに教えてくれました。

