〈bookrium=book+aquarium〉本の海を回遊するブックリウムの、本と陶芸のある生活です。


by bookrium
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雨水――『浅の川暮色』

雨水(うすい)……雪溶けて雨水ぬるむ。もう雪は降りません、降るなら雨。積もった雪も溶け始めます。立春から15、16日後。雪が陽気に溶けて、土中が潤いはじめる頃。


 〈あたしは次郎の提灯に灯がともる少し前の、こんな暮れ方の景色が好き〉


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五木寛之『浅の川暮色』より。
新聞記者の森口守は何十年ぶりかに、かつての勤務地金沢を訪れる。当時の森口は23歳だった。一流新聞のジャーナリストの卵としてだけでなく、新鮮な感覚のシナリオの一本くらい書いて、まわりに示したいという気があった。

〈若かったのだと言えば、それも少しは当っているだろう。だがそれだけではない自分のいやなところが、あの時期に集約されてくっきり現れていたのではあるまいか。大都会では目立たぬ部分が、金沢という古く静かな町を背景にして、なお一層きわ立っていたような気もする。〉

金沢について、金沢にいた頃の自分について、森口は思い出すことに生理的な圧迫を感じる。
空港で支局の若い記者に迎えられ、かつて通った「主計町」の町名が消え、尾張町と名を変えたことを知る。
森口はもうすぐ40になろうとしていた。

〈頭の中であるひとつの名前が、蛍火のようにかすかにともったり消えたりしていた。主計町の次郎、という言葉に結びついたその名前を、彼は本当は思い出したくなかったのである。〉

〈あれは尾張町の次郎なのだ、もう主計町などという町は浅野川のほとりには存在しないのだ。そう自分に言い聞かせると、少し気分が楽だった。(中略)古い町名を消してしまうように、古い記憶もあっさりぬぐいさってしまうことができたらどんなに気楽なことだろう。
 みんな昔の話だ、と、彼は口のなかで呟いた。〉


森口はかつて主計町と呼ばれた町へ、「次郎」へ訪れる。その店は、森口が金沢へ転任した時、歓迎会のような席をもうけてくれた場所だった。

〈森口は靴を脱いで女主人のすすめるままに狭い急な階段をのぼり、廊下の突き当たりの小部屋へ通った。天井は頭がつかえそうに低く、窓も床の間も小振りにできている。森口はその小部屋のどこか湿気をおびたくすんだ匂いをかいだ時、不意に自分がいま北陸の城下町にいるのだな、という実感をおぼえた。
「川の見える座敷のほうは?」
 と、彼は腰をかがめながら女主人にたずねた。
「ええ。あいておりますよ」
「ちょっとのぞかせてくれませんか」
「そういえば。むこうの広い部屋が気に入っていられたわね」
 女主人は小柄な体をのばすようにして立ち上がり、廊下をへだてた座敷のほうへ、さあどうぞ、と手招きした。
「浅野川が見たくてね」〉

夜の浅野川をみつめる森口に、この数十年間、自分の内側に押し込めていた、ある人の名が浮かび上がってくる。

〈柴野みつ、という名がそれだった。それは二十三歳の森口守が、この古い城下町で知ったはじめての女であり、そして十代の娘のひたむきな感情を、彼は青年のエゴイズムからそれほど心痛むこともなく捨て去ったのだった。〉


今、どこでどう生きているのか。
森口はかつてみつとこの座敷から暮れ方の浅野川の流れを見おろしながら話したことを思い出す。


〈あたしは次郎の提灯に灯がともる少し前の、こんな暮れ方の景色が好き、と彼女は言ったのだ。〉


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Commented by kaguragawa at 2012-02-21 22:47
正面、卯辰山のさらに奥にみえている山並みがいつも気になっています。医王山の方向になるのでしょうか。
拙ブログでも、同じ場所から撮った冬の写真をアップしました。
Commented by BOOKRIUM at 2012-02-21 23:38
kaguragawaさま、おひさしぶりです。
写真の奥の山並みは、医王山だと思います。
雪の浮かんだきれいな写真も見させていただきました。
by BOOKRIUM | 2012-02-19 23:45 | 当世本二十四節気 | Trackback | Comments(2)