〈bookrium=book+aquarium〉本の海を回遊するブックリウムの、本と陶芸のある生活です。


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タグ:石川近代文学全集 ( 7 ) タグの人気記事

中谷宇吉郎の〈雪は天から送られた手紙である〉も好きだけど、歌にある〈雪に言葉はない 手紙も届けられない〉というフレーズ(SNOW)も好きです。
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〈生命の世界にも、物質の世界にも、全くおなじ理法が存在しているということは、非常におもしろいことである。そういうことを、べつにおもしろいとも感じない人は、科学の美とは、無縁の人である。そして、ある意味では、幸福な人である。慾望の少ないことが、幸福の一要素であるから。〉

〈この六花状の結晶は、昔からよく知られていて、雪の結晶の代表的な形とされている。(中略)また六角柱の上下に、六花状の結晶がのび出していることもある。横からみると、鼓のような形にみえるので、鼓型の結晶と呼ぶことにしている。
 鼓といっても、これは高さ一ミリくらいの小さな結晶で、おとぎばなしの国の鼓である。もっとも、注意して見れば、肉眼でも、二階建てになっていることが、よくわかる。
 こういう鼓がふるとき、外套の袖をしばらくつき出していると、何百という小人の国の鼓が、しずかに袖の上につもってゆく。雪山の人里はなれたところで、雪の上に腰をおろして、じっとこの鼓を見つめていると、だれの心にも少年の日の夢がよみがえってくる。〉
中谷宇吉郎「誰も生まれないまえから雪は降っていた」


 
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by bookrium | 2010-01-15 15:09 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(0)

雪雷(ゆきがみなり)

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〈北陸の冬は昼でも薄暗い。そんな冬に突然、稲妻が光る。閃光とともに、雷鳴が地底を揺るがすようにとどろく。天候は険悪となり、霰が家の雨戸を荒々しくたたく。〉谷口吉郎「きびしい風土の中の造形美」

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by bookrium | 2009-12-19 23:01 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(0)
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〈自分のこの涙は万人の涙であらう。自分は自分一人の寂しさに泣いてゐてはならない。あゝ、自分はどうなつても構はない。〉


写真は西の廓と入り口にある文学碑。
島田清次郎の『地上』第一部は高校2年生の時に、市の図書館で借りて読みました。石川近代文学全集4。
断片的に清次郎の生い立ちに重なる小説は、昔も衝撃的でしたが、今見てもやっぱり色んな意味で衝撃的です。


金沢で母と二人きりで暮らす中学生の大河平一郎。今日彼は、美少年の深井が2歳上の体の大きい長田に『稚児さん』になれと迫られているのを助けた。深井を家に送り、平一郎はぎょっとする。深井の隣家は、平一郎が淡い恋心を抱いていた小学校の同級生、朝鮮で母を虎に喰われて亡くした吉倉和歌子の家だった。和歌子と親しく遊ぶ深井への嫉妬を覚えつつ、平一郎は父もなく貧乏な自分は釣り合わないかもしれないと考えるが、恋心に火がつき和歌子へ手紙を書く。
自分の教育費のために亡父の残した家も売って針仕事をする母お光。その献身的な愛を受けて、平一郎は本当に自分は偉くならなくてはいけないと考えるようになる。

〈平一郎は何故か「偉くなる、偉くなる、きつと偉くなる。」とつぶやかずにゐられなかつた。母を待つ時の寂しさがやがて少年の胸に充ちて来た。〉


平一郎は深井に和歌子への手紙を渡してもらうよう頼む。再会した和歌子は美しい少女に成長していた。


お光を慕っている芸者で、平一郎にとっては姉のような冬子を頼って、二人は〈春風楼〉という廓の離れに暮らすことになる。廓にはそれぞれの不幸な事情でやってきた女たちが身を寄せあっていた。平一郎は土蔵を勉強部屋にするが、落ちぶれた母と自分の身が悔しくて、偉くなることを誓う。


平一郎達が春風楼に来て一月たたない真夏のある夜、恐ろしい事件が起きる。春風楼にお幸の客の川上が県庁土木課の役人を18人連れて来た。自分に反対する人間をもてなして欲しいと言う。他から3人娼妓を呼んでも足りず、春風楼の娼妓も2人ずつ、誰か1人は3人の男を相手にしなければいけない。狂暴な野獣のような叫びの宴の陰で、女達はくじ引きをする。くじで3人の男を引いてしまったのは、病気で臥せっていた小妻だった。青ざめた小妻を見た茂子は、自分が小妻の分も引き受けると叫ぶ。

〈自刃のやうに鋭い神経、身体に悶えるアルコールの狂ひ、口惜しい口惜しい、死んでも生きても消滅のしやうのない口惜しい屈辱。〉


翌朝、茂子はのたうち回っていた。小妻のうめき声を聞いて、茂子はその肩に手をかけるが、苦しみ悶えた顔で血を吐き、小妻は絶命する。茂子は突然、恐ろしく大きな警鐘にさいなまれ、両手で耳をふさぎ、家中を走り回り、戸障子を踏み破り暴れ回る。
その朝、発狂した茂子は護送馬車に乗せられ、小妻は小さい棺に入れられ、春風楼を去って行った。

事件から春風楼がひっそりとしていた7月、明治天皇が崩御した。人々の噂から逃れた春風楼には賑わいが戻ってくる。ある夜、東京の大実業家·天野栄介のお座敷に出た冬子は、3日間一緒に過ごして彼の人柄に惚れ、妾として東京について行く覚悟を決める。
春風楼に戻った冬子が天野をお光に紹介すると、天野とお光は驚愕する。封印していたお光の「埋れたる過去」が甦る。叔母と甥の近親相姦から生まれた3人兄妹。裕福だった少女時代。亡夫と婚約していた双子の美しい姉·綾子を無理矢理奪って行った天野、天野への憎しみから「きつと滅ぼしてみせます。」とお光に宣言して彼と駆け落ちして行方の知れなくなった綾子。自分達の運命を狂わせた天野に勝ち得るのは、息子·平一郎しかいないとお光は強く信じ、復讐のため、平一郎の学業のため、平一郎を東京の天野の元に預ける。……



第一部は舞台と人物を紹介し、色んなことが途中で終わるので、続きが非常に気になります。何か壮大な(ドロドロした)物語の幕開けを感じさせてくれる。映画は既にありますが(未見)、漫画か昼のドラマになればいいのにと思う。
廓の女たちの描写が際立っていると思う。
何百年にわたる大川村の成り立ちを描くところが、人々を引きのカメラで眺めていて、神の目線のようで、印象深かったです。



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by bookrium | 2009-06-09 16:20 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(0)

加能作次郎 美しき作家


〈加能君は一種の童心を――少年のみづみづしい感情をいつまでも持ち続けてゐたといつて好かつた。〉


作家の広津和郎は、「美しき作家」という文章の中で、友人の加能作次郎のことをこう追悼しました。

〈大正期の作家たちは、その芸で、その把握力で、又その人生観で、それぞれ華やかな仕事をし、人々の眼をそばだたしめたが、その片隅で加能君は若し気がつく人でなければその前を通り過ぎて行つてしまひさうな、地味な、小さな、ケレンのない仕事をした。多くの人々が気がつかずに、その前を通り過ぎて行つてしまつたとしても、或はさう無理でないかも知れない。併しひと度気がついて、それをぢつと味はつて見る人があつたら、その人はこの地味な作家の素裸かで何の飾りもない姿に、しみじみとした美を感ずるであらう。舌にとろりとするやうな滋味を感ずるであらう。〉

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写真は『石川近代文学全集 5』加能作次郎は「恭三の父」「厄年」「羽織と時計(W?B君を弔ふ)」「世の中へ」「乙女心」が入っています。「乙女心」以外は読みました(これだけ総ルビで読みづらい)。

加能作次郎のことは、扉野良人さんの『ボマルツォのどんぐり』にある「能登へ――加能作次郎」を読んだり、島田清次郎との関わりから気になっていた(本にはふたりで撮った写真も載っている)。
読んでみて、広津和郎の言う〈しみじみとした美〉という言葉が、とてもふさわしいと思う。
京都の街を歩く扉野良人さんは、能登から一人飛び出してきた「世の中へ」の〈私〉作次郎が見た京都に、身近さを覚えます。

〈一昨年に少年期を回想した「世の中へ」を読んだとき、それがおおよそ百余年前の京都を描いた小説とは思えない身近さを覚えた。(中略)考えれば奇妙なことである。小説の世界を、じっさい歩く風景のまま、そこにいるように読むことができた。〉


明治18年(1885)に生まれた(明治19年とも言われ、作次郎に自分の正しい生年はわからなかった)加能作次郎が育ったのは能登の外浦、今は志賀町になる富来から一里離れた西海風戸という漁村。
富来は訪れたことがないけれど、読んでみてやっぱり能登なんだなと思った。この辺りでも兄様(あんさま)弟様(おっさま)と言うんだなとか、在所とか、七海の御輿とあるけどこの辺はキリコはないのかなとか、恭三の父が「おれゃ食いとうない。お前等先に食え。」という言葉、能登丸出しだと思った。

読んだ小説はみな作次郎の人生をなぞるように、自分が居るために苦労する父、打ち解けられない継母や異母弟妹のこと、実姉と伯父を頼りに13で家出同然で来た京都、丁稚として住み働きをし勉学の望みも持てない生活、苦学して大学へ入り、夏季休暇に京都へ帰るか能登へ帰るか、結核で臥せっている異母妹が嫌でうじうじ悩む様も描いている。継子のいじ気根性がずっとあるけど、それは作次郎もわかっているのだろう。
「厄年」での死にかけてる妹と、大漁の鰹に生き生きとした父と兄弟の様子が印象的でした。子供の時に激しく自分を苛めた異母妹への憎しみと、死を目の前にした彼女へ継母や父の手前兄らしく気にかけたり、そんな自分のやましさに嫌な気持ちになったり。
子供の時、継母に怒られて船の中で父と子ふたりで一晩明かしたこと。継母たちに気を使う父と本当に話をできるのは海に出た船の上で、帰郷した子に父は金の心配はするな東京で偉くなれと言う(本当は田舎なので東京の大学へ行かせていることで周りにぐじぐじ陰口を言われているのだけど、その辺非常に能登らしいと思った)。

懐かしさだけでは語れない故郷を加能作次郎は描いています。

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平成19年(2007)に志賀町には「作次郎ふるさと記念館」ができました。閲覧する際は富来図書館へ申込をするようです。入館無料。
没後11年の昭和27年(1952)、生誕地の風戸に作次郎の文学碑が完成。除幕式には作次郎の小説に出てくる村の人たち、70、80になる人たちが集まっていたという。碑には「父の生涯」の一節が刻まれました。

 《人は誰でも
  その生涯の中に
  一度位自分で
  自分を幸福に
  思ふ時期を持つ
   ものである》


昭和に入り新しい文学の時流から外れてしまった作次郎は発表作が著しく減り、国策の戦争小説が氾濫する中で死の直前まで校正を続け、告別式に校正刷が届いた最後の小説集『乳の匂ひ』の序文でこう書いています。

〈私のこのような作品は、小説として本格なものかどうかの論はさし置いて、恐らく今日の時代に於て最も非時流的なものだらうと思はずに居られない。(中略)
矢張り相変らず、自分自身の片隅で、自分自身の声に耳を傾けながら、恰も靴屋が靴を作るやうに、こつこつと自分の身に敵った作品の製作に精進してゐる外はなかつた。〉


昭和16年(1941)56歳で亡くなった作次郎の法名、釈慈忍の「慈しみ」と「忍ぶ」という字は、とても合っていると思った。
広津和郎は「美しき作家」の最後をこう締めくくっている。

〈彼の幾つかのあの純粋な短編は大正文壇の珠玉であつたといふ事を、やつぱり誰かがいはなければいけない。それだから私がいふのである。繰返していふが、それは友情からではない。私の批評眼がいはせるのである。〉


加能作次郎の小説には、しみじみとした澄んだ美しさが広がっています。

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by bookrium | 2009-05-15 12:51 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(0)
〈島田清次郎が自分自身を天才だと信ずるようになったのは、彼があまりにも貧しくて、父親もなく、家もない身の上だったからにちがいない。〉

昭和37年(1962年)第47回の直木賞受賞作、杉森久英の『天才と狂人の間』はそう言って始まる。雑誌「自由」に昭和35年11月から36年7月まで5回連載。当時杉森は48、9歳。

杉森は昭和30年頃、井伏鱒二より、島田清次郎は狂死ではなく、革命思想により政府に警戒されて入院させられていたという噂を聞き、興味を持つ。
杉森と清次郎にはいくつかの共通点があった。

没落した家の長子であること。
家族が金沢の花柳界と縁があること。
清次郎が七尾の郡役所で働いていた19歳の時、郡役所の前庭が遊び場だった6歳ごろの杉森と出会っていた可能性があること。
清次郎の婦女誘拐事件の被害者の姓が、杉森の祖父の金沢から来た後妻の母である〈でかおばば〉と同じであったこと。

〈彼がもし、生まれながらの貧者だったならば、そのような考えを起こさなかったかもしれない。〉


どうしても世間に名を挙げようと決心する清次郎。生まれた翌年に回漕業をしていた父を亡くして家は没落し、母の実家を頼る。祖父は公職から金沢の西の廓で吉米楼という芸者屋を開き、清次郎と母はその奥二階の一室で暮らし始めた。
神童と持て囃されたが、中学に入ると吉米楼の経営が苦しくなる。東京の実業家が英才教育の援助を申し出て、明治学院に転入するが、実業家が清次郎に断りなく母の再婚を斡旋したことに怒り、退学して金沢へ帰ってしまう。
母方の叔父を頼るも学費が負担になり、途中から商業学校に転入させられる。しかしここで文学に目覚めた。
清次郎はやがて宗教家の暁烏敏と親しくなり自由に振る舞う(暁烏敏は清次郎にかぎらず、科学者の中谷宇吉郎や漆芸家の松田権六の本にも出てきて、当時は石川の若者に大きな影響を与えていたのだろうと思う)。

商業学校を退学させられ、新聞社で働きながら、清次郎は10歳上で詩人として世に出始めた室生犀星に憧れる。犀星の育った雨宝院と清次郎の育った吉米楼は近い。
早稲田に入りたくて再婚した東京の母を頼るも、義父や叔父の理解を得られず、新聞社へ持ち込みをしても相手にされず、自殺未遂を起こしてしまう。母は離縁し清次郎と金沢へ帰り、人目を避けるかのように、犀川下流の貧民窟の鶏小屋を改造した小屋に住むことになる。
貧しく悲惨な状況で、我が子が天才か狂人かわからなくなり疑念を持つ母。ただ世間への反抗心をたぎらせて、清次郎は日記にこう書きつける。

〈私の心の底に一匹の虫が住まつてゐる。その虫は奇妙な怪物である。〉


その後、七尾の鹿島郡役所に務め、暁烏敏に京都の「中外日報」を紹介される。ここも2ヶ月で体よく追い出されるが、評論家生田長江を紹介され東京へ向かい、清次郎の人生は大きく変わることになる。この時20歳。

小説を読んだ生田長江と社会主義者の堺利彦の賞賛を受けて、新潮社から自伝的小説『地上 第一部 地に潜むもの』を発売。まだ20歳の写真を見ると眉目秀麗な地方の無名な青年の、格差社会を批判した恋愛小説が、文学愛好者以外の一般の人々まで受け入れられ爆発的なベストセラーとなり、上京からたった4ヶ月で清次郎は時代の寵児になっていた。
突然の異常な人気の渦の中で、清次郎はこういう文章を残した。

〈自分はもう四五年沈黙してゐたかつたのである。もう四五年、潜める竜でありたかつたのである。そしてこつこつ、図書館通ひや、山川の跋渉や、諸国の遍歴に自分を養ひたかつたのである。自分は家もなく資産もなく、只有るものは燃ゆる大志のみであつた……〉


彼に時間と少しの金の余裕があったら、狂乱な人生にならなかったかもしれない。

翌年、「地上」第二部を発表。この時には若者たちのヒーロー的存在になっていた。人気に浮かされて落ち着きのない日々を過ごす。第三部も版を重ねるが、徐々に清次郎の人気には翳りが見えてくる。

大正11年(1922年)23歳の時に、ファンで手紙のやりとりをしていた山形の少女、4歳下の小村豊子(発表時は健在だったため名は変えている。本名は小林豊)と結婚。洋行前に結婚をせかした清次郎に不安を覚えつつ、豊子は兄姉と上京する。上野で撒かれたビラの「文芸大講演会」の弁士の中に、清次郎の名を見つけ、この人の妻になるのだと豊子は誇らしさを覚えた。講演会を覗いてみると、豊子たちに気づいた清次郎は急に元気づいて熱弁を奮い、後で彼は〈今日ほど愉快に講演ができた日はなかった〉と語った。

〈しかし豊子は後年になって当時のことを回想した時、島田清次郎との短かい結婚の生活のうち、ほんとうに楽しかったのは、その日一日だけだったと思った。〉


金沢で清次郎と豊子と母の生活が始まるも、清次郎の豊子への追求と虐待、洋行に向かって10日も経たない内に女性スキャンダルが新聞に報じられたことから、豊子は実家に帰ってしまう。4ヶ月の短い結婚生活だったが、豊子は別れてから清次郎の子どもを生んだ。

清次郎は8ヶ月かけてアメリカ·イギリス·フランス·ドイツ·イタリアを周り、帰国。元々の調子に世界を見てきたことが加わり、尊大さがますます激しくなってくる。文壇の中からはそんな清次郎を嘲笑し、揶揄する者たちが現れた。同じ年に創刊された「文藝春秋」で清次郎は露骨な悪意の対象となり、〈帝王か馬鹿か低脳かこれやこの知るも知らぬも逢坂の関〉とまで書かれた。

翌年、清次郎は何度かファンレターをくれ無邪気に遊びに来たがっていた砂木良枝(本名は舟木芳江)という少女が、加賀藩出身の海軍少将の娘であり、作家の兄2人を持つことに気づき、興味を持つ。家に遊びに来させた1ヶ月後、清次郎は良枝を誘拐、凌辱、監禁したとして、新聞に一斉報道される。
同郷で砂木家とも交流があった徳田秋声に間に入ってもらうも、砂木家は清次郎を告訴。世間には清次郎を糾弾する者、舟木兄弟の清次郎の名声への嫉妬と見る者、同郷人として廓のお針女の息子を軽んずると見る者など、社会的スキャンダルになる。良枝から清次郎へ送った手紙が公開されたことにより、やっと告訴は取り下げられ、良枝にも非があった、不良少女だと、砂木家も非難の的となった。

〈それでは良枝はどの程度に無邪気だったか、それでも有邪気だったか?〉


事件の大正12年から30何年も経って、人々が島田清次郎も砂木良枝も忘れたころ、清次郎に興味を持った男が、ひっそりと暮らしていた良枝を訪ねた。男は良枝の話を聞いて涙が出そうになり、彼女の話を信じなければならないと思う。〈彼女はただ、小鳥のように無邪気で純真な小娘にすぎなかったのである。〉

〈「あたしはもう、昔のことはすっかり忘れて、生まれかわったような気持ちで暮らしているのに、まだ過去のほうから追っかけて来て、苦しめようとするんですか」〉


そう良枝は言う。杉森久英が『天才と狂人の間』を発表した時、まだ生存していた舟木芳江と小林豊にとって、この本で自分の過去を暴かれる、島田清次郎の話をされるのは、並の苦痛ではなかったと思う。許可を得て名前を変えて発表しているのだろうけど、苦しむのが分かっているのだから本当はふたりの死後に発表すべきだったのでは?と思う。

清次郎と良枝の事件から3ヶ月後、作家の有島武郎と「婦人公論」記者の波多野秋子との心中事件が起き、連日清次郎を報道していた世間の関心が一気にそちらへ移る。新聞雑誌の執筆依頼が途絶え、本の売れ行きもがた落ちになる。生活を立て直そうとした矢先に関東大震災にあい、金沢へ引き揚げて「改元」第二巻(実質「地上」の第六巻)の原稿を完成。しかし新潮社はじめ、どこの出版社からも出版拒否。金もなく、唯一の収入源である印税を絶たれ、清次郎は追いつめられていく。金策のために上京するも、宿代、散髪代、電車賃にも困り、徳田秋声、加能作次郎、中村武羅夫、吉野作造らを転々と頼り、最後に菊池寛を訪ねるも拒絶。

〈まもなく彼は血と泥にまみれた姿で、人力車に乗り、池袋の通りを通行中、挙動不審のかどで交番の巡査に逮捕された。〉


精神鑑定の結果、保養院に収容される。清次郎25歳。
母が入院費用を払えなかったため、公費患者となって、病状が快方しても入院継続。昭和5年(1930年)4月29日、〈精神界の帝王〉となりたかった清次郎は〈地上の帝王〉の生まれた日に、肺結核で亡くなった。

栄光の短い清次郎の数奇な31年の人生を、杉森久英は丹念に描いている。それでも、杉森の中の清次郎像というものを見ている感じにもなる。なぜここは書かないのだろうとか、この人の名は出ないのだろうとか、色々気になった。杉森の島田清次郎のイメージ像は、大きな影響を与えていると思う。

清次郎の晩年の姿を、杉森はこのように書いた。

〈彼はときどき新聞や雑誌を読んだり、自著「我れ世に敗れたり」のページを繰ったりして、思いに沈んでいたが、そこには往年の傲岸不遜の影は微塵もなく、ただ打ち挫がれた者の淋しい姿があるばかりだった。彼は医員に対しても、同僚の患者に対しても、ただただ謙遜で、丁重で、お辞儀ばかりしていた。〉


小説では紹介されなかったけど、退院の要望を出しても叶わなかった保養院の中で、清次郎が書いた詩『明るいペシミストの唄』は好きです。



          わたしには信仰がない
          わたしは昨日昇天した風船である
          誰れがわたしの行方を知っていよう
          私は故郷を持たないのだ
          私は太陽に接近する。
          失われた人生の熱意――
          失われた生への標的――
          でも太陽に接近する私の赤い風船は
          なんと明るいペシミストではないか。



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by bookrium | 2009-04-15 01:33 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(2)
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平成7年(1995)に石川近代文学館から発行された『石川近代文学全集6 杉森久英』。杉森久英は明治45年(1912)に七尾で生まれた作家。文章は平明で読みやすいです。
本の半分は小説の「能登」「天才と狂人の間」。それに能登や金沢の思い出を綴った随筆が色々。年譜、後半の随筆から読み始め、最後に「能登」を読みました。

「能登」は全二十章の自伝的な小説。この本には途中の第七章から第十二章はカットされてたので、いつか読んでみたい。七尾で生まれ、金沢の元芸者で祖父の後妻の〈おばば〉と〈でかおばば〉に育てられる芳雄。役人の父や教員の母など、周りの大人、排他的な能登の世界を非常に冷静に描いている。5歳から始まり、学生運動の盛んな時期に金沢の四高で学び自分は文学で生きる他ないと決める18歳まで。
地の文は標準語だけど台詞は能登弁。能登という土地、金沢への強い憧れ、土地の因襲に馴染みきれないけれど抜け切れもしない両親の様子。文学の話を聞きたくて、夏目漱石の弟子の松岡譲と親しい中学の教師、都築に勇気を出して泣きそうになりながら話しかけたり、四高で文芸部の退廃的な小山に友達になってもらいたくても子供なので全然相手にされなかったり…というところがいじらしい。

島田清次郎を描いた直木賞受賞作「天才と狂人の間」は、ずっと読もう読もうと思っていた一篇。島田清次郎についてはまた別で書きます。

七尾の書家、横川巴人について書いた「能登の人」。20歳上の異父兄、無角道人が中里介山と親しくて『大菩薩峠』の道庵先生のモデルとか、巴人自身も別の小説のモデルになったり、名前だけ知っていた横川巴人をもっと知る。

「雪の町の少女」という小説は短いけど結構好き。金沢がすごく憂鬱そうな町。30年前の幼すぎる少女への淡い恋心。

「雪ぐにのひと」は何冊か出ている〈一癖斎先生〉シリーズの一篇。この小説にふさわしい挿絵は小島功しかないなと思った。


四高や能登の思い出を綴る随筆は、昔を(特に食べ物を)懐かしむ様子が伝わってくる。気になるところは色々あって、金沢の春の淡雪のようなくちどけの寿煎餅というお菓子(今もあるのかな?)と、七尾の茶碗豆腐(丸くて中にカラシの餡が入ってる。中に何も入ってない茶碗豆腐なら食べるけど、はじめて知った)が食べてみたい。「だごじる」では〈諸君! 自家製のツミイレを食べたまえ!〉とまで言ってて面白い。

昭和25年に発表した「藤沢清造のこと」について、昭和54年の「「悲惨な末路」という伝説――藤沢清造」で自分が描いた清造のイメージの影響を考え、過去の記述を訂正したり、人柄が伺えます。

〈その頃から、中野重治は僕たちに近い作家だつた。〉
という四高の先輩、中野重治についての文章。〈人間が自分の良心を売り渡すこと、自分の品位をなくすること、――結局、自分が自分でなくなることの卑しさ、みじめさを、ほかの誰が中野ほど痛切に感じ得たであろうか?〉


最後の年譜を見ると、東大を出た後、熊谷の中学校で教えている。
昭和11年(1936) 24歳
〈国語・漢文を担当、文法、仮名遣い、書き取りを喧しく言う。(中略)文学雑談をよくする。ズボンのポケットに両手を突っ込み、口を突き出して歩いていたので「キセル」のあだ名をつけられる。〉

昭和12年(1937) 25歳
〈下宿には文学好きの生徒たちが集まるようになる。〉

昭和13年(1938) 26歳
〈「一種の人間嫌い」になって、不愉快な日々を送る。下宿で台湾猿を二匹飼う。〉


…なぜそうなる? と思うけど、芥川賞候補になった小説「猿」は、この猿たちのおかげなんだろうか。
教師が向かないと27歳で新卒募集のはずの中央公論社に入り、原稿依頼に行ったのに萩原朔太郎を怒らせたり、転々とした後、河出書房で「文芸」の編集長をしている。『阿部知二作品集』の企画をしたり、退社後も月一回の〈阿部さんの会〉の世話人になったりしていて、阿部知二と杉森久英はつながりがあったんだなと知れてよかった。
杉森久英の思い入れのありそうな太宰治の伝記もいつか読んでみたい。


加能作次郎が左手の親指で能登半島を語ったように、「ふるさと能登の思い出」での杉森久英の表現は印象深かった。そんなふうに考えたことがなかったから。




〈能登半島を竜にたとえるなら、その竜が口に半分くわえて、呑み込もうか、吐き出そうかと迷っているようにみえる珠玉に当たるのが、能登島である。〉

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by bookrium | 2009-04-04 23:59 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(0)
c0095492_19525436.jpg「石川近代文学全集3 室生犀星」です。今まで詩しか読んでいなかったので、小説の犀星は新鮮。

「性に眼覚める頃」「或る少女の死まで」など有名な作品を読む。金沢の犀川大橋ほとり、犀星の育った雨宝院を思い出しながら。若い日々の屈託がいいです。

「後の日の童子」という作品が印象的。作家の元にたびたび訪れる童子。作家も妻も死んだ我が子とわかっていて歓迎する。生まれた赤ん坊に童子は近寄らない。日が暮れると童子はどこかへ帰ってゆく。足跡に這うのはヤスデ。童子はだんだん作家と妻の目にはかすんで見え、遠くなっていく…。

短い話ですがせつなくていいです。

犀星の詩を知ったのは高校生の時。女優の緒川たまきさんが「昨日いらつしつてください」という詩を紹介しているのを目にしました。図書館で借りてノートに書き写したのを覚えています。

その後は21位の時に、広坂の近代文学館前にあった頃のダックビルで、文庫本の犀星の詩集を手にしました。その本で「まだ知らない友」という詩を読みました。

広坂当時のダックビルはガラス貼りの四階からレンガの近代文学館や桜の緑を見下ろして、静かな空間でした。当時はブックカフェに馴染みがなかったので、飲み物をたのまなかったことをやや後悔。たくさんの本が静かに収まっていて、眺めていると本たちがいろんな世界につながっている気がしていました。
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by bookrium | 2007-01-30 19:52 | 北陸の作家 | Trackback | Comments(0)